米沢らーめん・蕎麦・うどん食べるなら米沢麺業組合加盟店で!

米沢麺業組合

米沢ラーメンの歴史米沢そばの歴史

米沢らーめんの歴史

関東大震災で帝都東京が大混乱になったのが1923年(大正12年)。その数年前、米沢の夜の町をチャルメラを吹きながら屋台を引く3、4人の中国人がいました。売り物は「支那そば」。当時、ラーメンはこう呼ばれていました。中国料理を日本人向きにアレンジしたこの中国風の「そば」は、横浜の中国人街に生まれ各地に普及していきました。そしてついに米沢にも現れたのです。中国の夜泣きそばは予想外に売れ、まもなく店を構えるまでになりました。

また同じ頃、米沢市は門東町にあったカフェ-『舞鶴』が、調理人常松恒夫(つねまつみちお)の手により支那そばを売り出しました。東京築地の政義軒で修行を積み、和洋食のほか中華料理もこなす腕利きの職人だった常松調理人は、米沢における最初の日本人ラーメン職人となりました。

ちぢれ麺誕生秘話

さて、米沢らーめんの特徴のひとつである縮れ麺は、なにを隠そうこの常松恒夫(常さん)の発案によるものだったのです。常さんをはじめ米沢のラーメン職人たちは、なんとか特長のあるうまいラーメンをつくりたいと日夜考えていました。(これは今にいたるまで変わらぬ職人気質ではあります。)

その常さん、あるとき奥さんの大事に大事にしていた布地(機織物)をシワクチャにしてしまったのです。ガッカリした後おっかない表情に変わるに違いない奥さんの顔を思い出し、「悪いことをしてしまった」と反省。その織物に顔をうずめたのでした。するとどうでしょう。その感触のなんと柔らかく気持ちのいいことか。そこで常さんは、ピン!とくるものを感じました。「これがラーメンだったらどんなものか」。常さんは奥さんにあやまるのもソコソコに、さっそくラーメンを手でもんでシワクチャにしはじめました。そうしてできあがったラーメンのうまいこと。これはイケル!

それから、常さんのあみだした「手もみラーメン」の技は米沢中のラーメン屋さんに広がり現在の米沢ラーメンの一番の特長になったのでした。

あっさりスープの秘密

そしてもうひとつ、あっさりした後味のよいスープ。これも米沢らーめんの特長のひとつです。なぜ米沢らーめん はあっさり味なのか?これには諸説ありますが、いちばん有力なものをご紹介します。

中国人がもたらし、常さんが発展させたラーメンは昭和9年頃になると爆発的な勢いで米沢中に広がり、メニューにラーメンのない店は1軒もなくなるほど拡大しました。

米沢の人はラーメンがなければ夜も日も明けぬぐらいのラーメン好きになったのです。ただ、いくら好きとはいっても毎日毎日食べるのにコッテリした昧では飽きてしまいます。そこでラーメン職人は「たとえ毎日でも飽きずに食べてもらえる昧は何か?」と考えました。それはあっさりして後味のよいスープしかない、という結論に達するのに時間はかかりませんでした。

こうした日々の研究の積み重ねが現在の米沢ラーメンをつくりあげ、そしてその研究心は今も進行中なのです。

米沢蕎麦の歴史

養老三年(719年)「桃の形をした米が降ったので米沢の名が生じた」と言う伝説があります。桃の形とは三角形を意味し、すなわち三稜角のそばの実を表しており、昔、黒麦とか三角米と呼ばれていたことからもうなずけます。

当初は、そばの実の皮を除き、御飯のように炊いて食べていましたが、中国から製粉技術が伝えられてからは、実を挽いて粉にし「そばだんご」「そばがき」と形を変え、更に江戸時代には現在のような細長いそば、いわゆる「そば切」が誕生致しました。上杉時代には、米沢にも始めて「饂飩屋」(そばや)が現われ、営業するようになりました。

そんな歴史の中で、米沢藩主上杉鷹山公は、藩の窮乏を救うため、養蚕の奨励(米沢織の発祥)野生の草木の食用あるいは薬用への利用法を広め、自給自足の態勢を築かれました。一方、米の不作には、年に三回も収穫できる「そば」の栽培を奨められ飢餓の救済に大いに役立ちました。こうして米沢にも伝統のそばが、定着してきたのです。

質実剛健、質素倹約を唱えた上杉鷹山公のこころが息づく置賜地方。この鷹山公のこころは今でも引き継がれています。

Copyright © 2020 米沢麺業組合 Allrights Reserved.